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溺れる


■古くからの言葉に
何かに夢中になり過ぎると自滅するという譬えで
酒に溺れる、博打に溺れる、果ては女に溺れる等
この溺れるという意味は
人間は冷静さを失うほど物事に没頭してしまうと
みさかえが無くなって、ことに依れば身を亡ぼすという意味だ。
更に細かく考えると
物事に熱中すればよといわけではなく
やればやるだけ力が付くこともあるが
麗羅否な判断が出来なくなる危険な状態にもなる。
自分でも分らなくなって暴走してしまう前に
自分でセーブする必要があると思う。
まさに水に溺れるの如くで、何事も溺れてしまうと命取りになる。

なんでこんな属っぽいことをと云うのか
実は絵を描く者にも同じことが当てはまると思うからだ。
仕事に自信を持つことは大事でもその意識の中には常に
夢中になり過ぎて我を忘れない
ことも大事なような気がする。
立て板に水を流すではないが
余りに慣れ過ぎると、客観視出来ないで自分に酔ってしまうと
それは作家にとっては致命的かもしれない。
もちろん絵を描いていて溺れて死ぬことはないし
誰にも迷惑をかけることもない。
だがそんな状態になっていても周囲の誰も忠告はしてくれない。
逆にそれを褒め称えられたりするとお終いである。
機嫌よく泳いでいる者に
『アンタは溺れかけてている』などとは言い難い。
言われた方もカチンとくるだろう。
残念ながらそんな人間関係は、よほどでなければ築けない。
となれば頼れるのは自分の意志だけ。
ところが他人のことは判っても、いざ自分のこととなると判らないもの。
これでいいのか、いや何かがおかしい等々と
もし内なる声が聞こえたとしても、打ち消したい思いも働いたりもする。
自惚れを厳しく排して、自問自答しなければならないのに
溺れてしまうとそれが出来なくなるのだ。
自信がなければ良い仕事は出来ない。
しかし、それが講じて己惚れが先行すると危ない。
こんな当たり前のことが、ようやく私にも最近少し解りかけてきた。
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それはそれとして
好きな事でもし溺れるのならそれも本望だという声も・・・
確かに何時も覚めた目でいるよりは
馬鹿を承知でとことん行くのもある意味で正解だったりもする。
我を忘れるほど夢中になれること自体が幸せで
それが元で自滅したとしても、それはそれで本望かもしれない。
だから一概にはどうこう言えないことで
結局最後は本人次第ということだが。

私は自由に生きたいと思う絵描きではあるがが
かといって自分さえ満足すればよいというわけには行かないし
無茶なことも出来ない。
絵を描くことはその最たるもので、制約やら禁じ手やらも多く
その都度冷静にコントロール(判断)をしながらの業である。
しかし、こんな私も我を忘れるほど
自由に描きたいと思うこともあるが
結局は『自由ほど最も不自由なものもない』と落ち着く。




【2018/07/04 23:59】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
完成度


■観る側の好みは別として

何をどう描いても完成度(出来栄え)は

一定の同じレベルでなければプロとは言えない。

またその日の気分や描く対象にも拘らず

出来、不出来の差があってはならない。

偶然やjまぐれ等の一切の言い訳は通用しない。

花菖蒲淡彩


それはどんな分野も同じで

更には年々の維持、継続がなければならない。

それがプロの世界ではないかと思う。

もちろん作家として納得いかない作品はその都度あるものの

その不本意を糧に更なる高みへと繋げるられるか。

それを含めて客観的に一定の完成度は保たねばならない。

絵描きと名乗るのは簡単でも

それを職業として厳しい姿勢で実践することは容易ではない。







【2018/06/12 19:50】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(1) |
絵描きの独り言


■私は元々が作品作りは孤独な格闘技だと思っていて

独り黙々と悩みながらの作業であって

その姿(過程)をみせてどうこうするなんて事は考えない。

ハングリー精神とか、内なる情熱の発露などと云う言葉が

今や死語になり、青春や退廃も、夢も希望という言葉も

遠い空事の様に聞こえてしまう時代になってしまった。

学校の裏庭にあった焼却炉から、燃やす前の短くなった鉛筆

それを拾ってきてわら半紙に絵を描いていた様な少年は

どうしても今の変化について行けないことが多い。

ジュンブライド

特殊な能力(才能)は認めるものの

芸術は見世物やパフォーマンスとはチョット違う。

驚きの技術を見せて注目させる手法を最近よく見掛ける。

確立された演劇の発祥は大道芸から始まったとするなら

アートもさほど変わらないかもしれないが・・・

世の中が進化して便利になるとその表現方法も

昔では考えられない事が出来てしまうのも時代の流れか。

確かに薄暗いアトリエの一室で、ランプの灯りを頼りに

食うや食わずの貧乏絵描きが絵を描く様な時代ではなくなった。

逆にそんな土壌からは全く新しい発想のアートが出現するのも

不思議なことではないが。。。

目立った一発芸は一時はもてはやされてもすぐに消える。

それが今の世相でも、長い歴史の延長なら

それもまた仕方のないことかもしれないのだが。

失われた自然と同様に、人間本来の性質(精神)も

一度失われると元へは戻せない。

天然のエネルギーより効率の良いと言われ

原子力へと転換された結果、どれほど多くのものが失われたことか。

科学や文化の本来目指すべきは人々の幸福であり、

その理想を忘れたところから、狂いが生じて

やがて徐々に崩壊が始まる。。。

私は名も無い一介の絵描きで、なんの力も無い人間である。

しかしそれでも疑問は疑問として問える自分でありたいと思う。

周囲がどうであれ、自分は自分で不器用でも時代遅れでも構わない。

マイナーを売り物にもしたくないし、他を押し退けてまで前に進みたくも無い。

愚直に自分らしくありたいと思っても

今の時代ではこれも一種の独善的だと言われかねない?





【2018/05/29 08:54】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
人に隠れた深い思い


■古い話で恐縮だが・・・

以前何気なく昔の映像をネットで観ていると

古賀政男のエピソードに出会った。

あのレコード大賞に輝い『柔』の受賞の秘話だった。

この曲を歌ったのは歌手の美空ひばりだが

彼女は古賀門下のひとりで、数あるヒット曲の中でも

特にこの曲が大賞を取ったことで

『初めて先生にご恩返しが出来ました』と語っていた。

そしてその場に居た古賀自身は苦しかった昔を振り返りながら

『亡き母に少しは私も親孝行ができたかなと思います』と

涙ながらに声をつまらせていた。

既に古賀自身も70歳になっていたが

師を思い、親を想う気持ちに勝る情はない。

結果が総てとは言わないが

恩も感謝もそれまでやってきた結果次第で

初めて湧く思いがあるようだ。

歌謡界に共に身を置いて

照日曇る日を繰り返しながら歩んだ

古賀と美空の二人にしか解らない

深い思いがあったのだろうと私は画面を観ながら思った。

襟裳岬スケッチ

今あることが喜べず

報恩感謝のない人生はどこか寂しい。

何故ならそれ自体が、今の自分の姿そのもだら。

勝者でなければ語れない言葉がある。

どの世界、どんな分野であても

それはどうやら紛れもない事実のようだ。

【画/北海道襟裳岬】


【2018/05/09 23:55】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
自分と作品は・・・



■私はかれこれネット初めて30年近くなる。
その間世界中の沢山の作品を観てきて思うことは
こんな素晴らしい作品を描く作家は
一体どんな人物なのだろうかと興味が沸く。
モニター越しながらもその魅力が伝われば伝わるほど
描き手はそれ以上に魅力ある人ではないかと思ってしまう。
たかが一枚の絵である。
しかし、他者に分身(作品)を観てもらうということは
そういうことではないだろうか。
木蓮はがき
語弊を承知で敢えて言えば、
作者に興味が湧かないことは、残念ながらその作品にも
それほどの惹きつけられるものを感じないということになる。
これはあくまでも個人的な主観で拙い経験ながらも
私なりに過去から得たひとつの結論である。
思い上がって言うのではなく
自分もそんな周知の目にさらされている身ならな
気を緩めるなと戒めている。

見栄や格好だけで作品が描けるわけがないし
作品と作者は常に不可分であるなら
描いてしまえばそれで善しではなく
出来るなら描いた絵に恥ずかしくない自分でありたい。





【2018/05/05 20:25】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
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Author:コンドル
透明水彩画のブログです。
絵を描くことは感動を見つけ出すこと。その時々に出会った想いを備志録的に綴ります。




■変なHNですがネットを飛び回るには便利な南米の鳥です(笑) 観掛けはこんな姿でも、いたって小心者です。 気まぐれな更新になりますが、どうぞよろしくお願いします。

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