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ある生徒さんの話し
  

■6、7年前に知人の紹介で我が教室に入会した男性がいる。

今まで絵など子供の頃から描いたことがないと言うその人に

取りあえず習うより慣れることなので

『まづ1000枚描いてみましょうか』と私が言うと

『ハイ判りました描いてみます』と即答した。

以来100~200、300~500枚と描き続けた。

やがてある時期から色も構図も見違えるほど上達をした。

言われるまま素直に実践するこの人は

将来きっと上達するだろうと私は密かに確信していた。

事実、絵など無縁だったその人は

そこそこ知られた公募展に(今年)入選を果たした。

(私が勧めた訳でもなく本人の意思でこっそりと)

公募展に出すこと云々ではない。

絵は描けば描いた分だけ上達するのである。

『そんな事言われても無理だ』とか『あの人は特別だから』

そんな言葉が先に口に出る人はその時点で既に上達は望めない。

言われた後は自力で進んでいくからこそ力が付くのである。

稚内ノサップ岬


口幅ったいことを言うなら・・・

指導者の仕事は的確な方向を指し示すことであって、

個々に手取り足取りして同じ絵を描かせる事ではない。

この生徒の描く水彩画は私とは全く違うけれどもそれでいい。

勿論門下の一人なので、誰の目にも私の影響を受けているのも確かだが

強いて自分の個性を無くしてまで、師匠に似せる必要はないと私は思う。



【2019/03/31 23:28】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
好みの違い


■一口に麺類といっても

蕎麦、うどんから始まりラーメン、素麺、スパゲッティーetcと色々ある。

そして食する側がそれぞれに拘りだすと好みが別れる。

当然ながら作るその道の匠となれば

万事に半端なく負けじと研究するだろう。

そこには伝統も有れば、斬新な発想で新たなものが生まれたりする。

絵画(芸術)の表現も結局は同じで

理屈を幾ら並べても平たく云えば

送り手も受け手も好みと時代が違うだけで

上位や序列などあまり意味がない。

カップラーメンが一番好きだという人が居ても良い。

奥深いその道の味を極めようするのも自由なら

何を食べたいかを決めるのも客の自由である。

時代をさかのぼれば『そんな表現は邪道だ!』と批判されたことが

後の世では主流となることも珍しくない。

花と華 (2)

おかしな譬えになってしまったが

私もかれこれ40年前(たまたま)透明水彩画を我流で描き始めたが

いまだに難しくて苦労の連続。

もし違う仕事に手を付けていたとしたら

やっぱり同じことを言っているだろうと思う。

何を食べようかと迷っている人に

自分の造るうどんは世界一だと自負するのは自由である。

しかし既に他店のうどんを食べている人に向かって

本物のうどんはそんなものではないと言うのはいささか僭越。

目から鱗で『そうなんだ!』ともし何かひとつでも納得が得られて

別の麺類を食してみるのもそれはそれで客の判断。

我々描き手(作家)は己が持ち前の作品を

精一杯に描き提供するのが本分であり、それ以上でも以下でもない。

天性我流とはそういうものではないだろうか。




強調文
【2019/01/14 22:40】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
二割減とは



■一点の狂いも無い完璧な作品など不可能ある。

敢えて個人的に言うなら、

余りに完璧過ぎると現実離れして、逆に共感が薄れるような気がして

凄いなあー、上手いなあーとしか言えない。

もし作品の鑑賞を『作品を読む』こととするなら、

読者が個々に読んで味わう余裕が欲しいほしい。

絵を描く上で一番難しいのは

この鑑賞者に想像や共感を呼び起こしてもらうことだと私は思っている。

対象を単に忠実に写し取っただけの様な作品には

どうしてもイメージの広がりに物足りなさを感じてしまうのである。


北の空 (2)


例えば、料理人は素材から吟味して調理をする。

そして客の前に差し出す。

人の味覚はそれぞれでも、オリジナルで工夫のあるものは

食しても味わい方にも広がりがあって楽しい。

絵も同じで、作品を鑑賞者に提供して何かを感じてもらいたい。

その為に『今度はこれをどのようにみせるか』それを日夜工夫をして

不特定のギャラリーに観て貰うのである。

当然それは一律同じ評価にならない。


禅問答みたいで恐縮だが

我々絵を描く者は、自分の思いを如何に表現するかに尽きると思う。

それは遥か万里の道程ほど遠いかもしれないのに。。。

言葉で表現出来ないものを滲み出そうとするのである。

無意識か意図的なのかは別として、

それを忘れると絵を描く意味さえもなくなる。

絵はけっして言葉や理屈で描く訳ではないが、

言葉にしなければ、自分の目指す完璧な高みへも到達できないと私は思う。




【2019/01/13 22:40】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
完成度


■観る側の好みは別として

何をどう描いても完成度(出来栄え)は

一定の同じレベルでなければプロとは言えない。

またその日の気分や描く対象にも拘らず

出来、不出来の差があってはならない。

偶然やjまぐれ等の一切の言い訳は通用しない。

花菖蒲淡彩


それはどんな分野も同じで

更には年々の維持、継続がなければならない。

それがプロの世界ではないかと思う。

もちろん作家として納得いかない作品はその都度あるものの

その不本意を糧に更なる高みへと繋げるられるか。

それを含めて客観的に一定の完成度は保たねばならない。

絵描きと名乗るのは簡単でも

それを職業として厳しい姿勢で実践することは容易ではない。







【2018/06/12 19:50】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(1) |
相性


■人間関係から始まって、食べ物に至るまで

物事のすべからく相性というものがある。

さしたる理由は定かでは無くても

しっくり違和感がないと無理しなくて済む。

反対もまた然りで、これはもうどうにもならない。

好き嫌いを言うのは勝手な我儘なのかもしれないが

これを無くすと自分も無くなるような気がする。

結局自分探しとは、生涯を共にする伴侶のように

相性の良し悪しを選択するようなものだ。

絵を描くことも自分と相性の悪いものは描きたくない。

絵の具の色も相性が悪いと汚く濁る。

好みもあって一概には言えないが

汚い色はヘドロみたいで美しくない。

美しく見えるのは相性が良いからだと思う。

それは本能的で理屈ではなく、直感するものかもしれない。


木蓮ハガキ3 (2)

人は相性が悪いからと言って

避けて通れるばかりとは限らず

時には我慢をして目を瞑らねばならないこともある。

しかし所詮ストレスが溜まるだけで長くは続かない。

そしてまたひとつ己を知ることになる。

好きな好物は幾ら食べても飽きないと言うが

絵を描くのもそんなものだと私は思う。

時間も手間も無駄さえも平気なのだ。

つまり、物事の相性を明確に知ることなく突き進んでも

迷いの繰り返すだげで、出口も見つけられない。

もし相性が悪いと気付いたときは

潔くきっぱりと捨てることが大事ではないだろうか。

それでまたひとつ自分というものが見えるのだ。





【2018/04/10 22:35】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
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透明水彩画のブログです。
絵を描くことは感動を見つけ出すこと。その時々に出会った想いを備志録的に綴ります。




■変なHNですがネットを飛び回るには便利な南米の鳥です(笑) 観掛けはこんな姿でも、いたって小心者です。 気まぐれな更新になりますが、どうぞよろしくお願いします。

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