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好みの違い


■一口に麺類といっても

蕎麦、うどんから始まりラーメン、素麺、スパゲッティーetcと色々ある。

そして食する側がそれぞれに拘りだすと好みが別れる。

当然ながら作るその道の匠となれば

万事に半端なく負けじと研究するだろう。

そこには伝統も有れば、斬新な発想で新たなものが生まれたりする。

絵画(芸術)の表現も結局は同じで

理屈を幾ら並べても平たく云えば

送り手も受け手も好みと時代が違うだけで

上位や序列などあまり意味がない。

カップラーメンが一番好きだという人が居ても良い。

奥深いその道の味を極めようするのも自由なら

何を食べたいかを決めるのも客の自由である。

時代をさかのぼれば『そんな表現は邪道だ!』と批判されたことが

後の世の主流となることも珍しくない。

花と華 (2)

おかしな譬えになってしまったが

私もかれこれ40年前(たまたま)透明水彩画を我流で描き始めたが

いまだに難しくて苦労はするものの面白い。

もし違う仕事に手を付けていたとしたら

やっぱり同じことを言っているだろうと思う。

何を食べようかと迷っている人に

自分の造る手打ちうどんは世界一だと自慢するのは自由である。

しかし既に他店のうどんを食べている人に向かって

本物のうどんとはそんなものではないと言うのはいささか僭越。

目から鱗で『そうなんだ!』ともし何かひとつでも納得があって

別の麺類を食してみるのもそれはそれで客の自由な判断ある。

我々描き手(作家)は己が持ち前の作品を

精一杯に描き提供するのが本分でそれ以上でも以下でもない。

それでよいのではないだろうか。





【2018/10/06 10:37】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
完成度


■観る側の好みは別として

何をどう描いても完成度(出来栄え)は

一定の同じレベルでなければプロとは言えない。

またその日の気分や描く対象にも拘らず

出来、不出来の差があってはならない。

偶然やjまぐれ等の一切の言い訳は通用しない。

花菖蒲淡彩


それはどんな分野も同じで

更には年々の維持、継続がなければならない。

それがプロの世界ではないかと思う。

もちろん作家として納得いかない作品はその都度あるものの

その不本意を糧に更なる高みへと繋げるられるか。

それを含めて客観的に一定の完成度は保たねばならない。

絵描きと名乗るのは簡単でも

それを職業として厳しい姿勢で実践することは容易ではない。







【2018/06/12 19:50】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(1) |
相性


■人間関係から始まって、食べ物に至るまで

物事のすべからく相性というものがある。

さしたる理由は定かでは無くても

しっくり違和感がないと無理しなくて済む。

反対もまた然りで、これはもうどうにもならない。

好き嫌いを言うのは勝手な我儘なのかもしれないが

これを無くすと自分も無くなるような気がする。

結局自分探しとは、生涯を共にする伴侶のように

相性の良し悪しを選択するようなものだ。

絵を描くことも自分と相性の悪いものは描きたくない。

絵の具の色も相性が悪いと汚く濁る。

好みもあって一概には言えないが

汚い色はヘドロみたいで美しくない。

美しく見えるのは相性が良いからだと思う。

それは本能的で理屈ではなく、直感するものかもしれない。


木蓮ハガキ3 (2)

人は相性が悪いからと言って

避けて通れるばかりとは限らず

時には我慢をして目を瞑らねばならないこともある。

しかし所詮ストレスが溜まるだけで長くは続かない。

そしてまたひとつ己を知ることになる。

好きな好物は幾ら食べても飽きないと言うが

絵を描くのもそんなものだと私は思う。

時間も手間も無駄さえも平気なのだ。

つまり、物事の相性を明確に知ることなく突き進んでも

迷いの繰り返すだげで、出口も見つけられない。

もし相性が悪いと気付いたときは

潔くきっぱりと捨てることが大事ではないだろうか。

それでまたひとつ自分というものが見えるのだ。





【2018/04/10 22:35】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
後ろ側
 

■自分の背中は直接には見ることが出来ない。

人の背を見て学ぶともよく言う。

名優は背中で台詞を語るとも。

何れにしても後ろ姿というのは大事なのだろうと思う。

33763_m.jpg


背中を背景と置き換えると

絵も確かに背景次第で決まってしまうことがよくある。

私の様な凡人はつい目に見えるものばかりに気を取られてしまうが

しかし、達人ともなると背景もちゃんと有るように描いている。

『有るように』とは描いてなくても存在することだ。

それを今風に言えば空気感という表現になるのだろが

自分でも想像力を働かせながら、それを表現することは難しい。

具体的には描かなくても何かが有ってこちらに語りかけてくる・・・

本当の画力とはそんな部分を指すのではないだろうか。

表に見える(描かれている)色や形はほんの一部分に過ぎず

その背後には無限に広がる世界があるはずで

それを観る者に誘えることを表現力と言う。

足元さえ見えず、何も解らないままの頃には戻れない。





【2017/09/10 23:00】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
プロとアマ
 

■絵を描く人は今も昔も多い。

それはそれでよいことだとは思うが、

プロの画家と趣味の愛好家とどこで線引きするかは難しい。

近頃は個展を開くことも昔ほど大変ではなくなり

作品に何がしかの値段を付けて販売るのも自由である。

また、自前の教室を開いて月謝を取るのも、

講師に招かれたりするのもまた然りで、

特別な資格や許可を必要とはしない。

『今日から絵描きだ!』と宣言するのも簡単である。

しかし、プロ(専門家)となれば、一事が万事厳しい世界で、

気まぐれも妥協も、或いは日常の生活に於いても

その自覚が求められ、片手間程度の軽い意識では到底務まらない。

そこには好きなことを同じ様にやっていても天地雲泥の違いがある。


反対にあれほどの実力と意識を持ちながら

何故アマチュアなのかと不思議に思う人も居る。

目立たずひっそりと純粋に描き続けられる人も凄いのである。

所詮は他人がとやかく言うべきことではないく

それがご本人のスタンスなのだ。

27-DSC04872.jpg


絵は鉛筆さえ持てると3歳児でも描ける。

しかし、それが作品となれば容易ではない。

誰かに習うことは可能でも、教えるととなると簡単ではない。

たとえ趣味の延長でプロになったとしても、

最終的に問われるのはその人の自覚である。

曖昧なこの世界で自分の立場はどうであれ、

『プロとアマとの違いはこれだ』という何かを

自分なりに持つべきではないかと思う。

もしそれすらなければ『あなたは一体何者ですか?』となる。

嫌でも抜き差しならないものが付いて回っても

一貫して揺ぎ無いもの持たねばならないのは

他のどんな分野も同じではないだろうか。

専門家であろうと、二足の草鞋を履こうと趣味に撤しようと

表現者とすればそれぞれに一切の垣根などは無い。

あるのは『純粋に撤するという精神』だけである。




【2017/09/04 23:59】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
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透明水彩画のブログです。
絵を描くことは感動を見つけ出すこと。その時々に出会った想いを備志録的に綴ります。




■変なHNですがネットを飛び回るには便利な南米の鳥です(笑) 観掛けはこんな姿でも、いたって小心者です。 気まぐれな更新になりますが、どうぞよろしくお願いします。

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