高齢化社会

ご近所に住む一人暮らしの老人が、昨日介護施設に入居する為に引っ越した。
90歳を超えても元気で気丈に今まで暮らしてこられたが、やはり高齢者の独り暮らしには
何かと危険も伴うので、45年間住み慣れた家を出ることになったらしい。
朝早く見送りの人達に『長いことお世話になりました。みなさんも元気で』と
明るく挨拶をして迎えの車に乗られた。
恐らくはもう二度とまみえることはない別れの言葉のようにも聞こえてやるせなかった。

少子化、高齢化社会が容赦なく押し寄せる中で、この様な光景は珍しくはない。
誰ひとり避けられない生老病死という現実。
平均年齢が格段に伸び、老後の福祉や介護支援が叫ばれている。
しかし、果たしてこの国はそれを必要とする人達にとって本当に優しいのだろうか・・・
本来の意味で『長寿』を自他共に喜べる社会でなければならない。
まだ若いからとけして他人事では済まない現実を目の当たりにして、
色々と複雑な思ひのする一日だった。



【2014/04/30 17:47】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
君の名は


出会っても名前さえ知らない花がある

色と形がおもしろくて、ただそれだけで描くことがある

いずれそのうちに解ると思いながら年月が経ち

未だに判らないままだが

描いたことだけは忘れない


kiminonawa1.jpg




【2014/04/28 18:00】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
道具に凝る

ウチの教室の生徒さんの中に『先生このイーゼルは?』とか
『この筆は何に使うのが?』などとやたらと道具に凝る人が居る。
新しい画材が売り出されると速攻購入したり、
自分だけのオリジナルな道具を作ってみたりもする。
他の趣味でもそうかもしれないが、何故か女性より男性の方が
道具類に凝る傾向があるようだ。
筆立(縦)

確かに使い勝手の良いものを使うことは大事である。
しかしその情熱を描くことにも向けた方がもっとよいのかも?
道具に凝るのも趣味の楽しみのひとつのようなので笑って見ているが
総じてそういう人ほど、上手く描けなかった理由に
『この道具が悪い』と言い訳を言ってしまったりするものだ(笑)
弘法は筆を選ばずという言葉も解釈ひとつで意味が変わる。



【2014/04/27 21:57】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
粗大ゴミ
■過日家電製品の処分で引き取り業者に電話した。
テレビ一台の回収で5千円・・・
処分したいものは他にもパソコン、プリンター、冷蔵庫等があったが、
全部でいったい幾らになるのか。明らかに足元を見ているようで止めた。
市の資源ゴミは無料でも大型家電は取りに来てくれない。
電気店に聞くと、メーカーにリサイクル券を発行してもらってとか、持ち込みなんとか言ってややこしい。
そこで、街中を流している廃品業者を呼び止めて聞いてみた。すると『これは金にならない』からとあっさり向うに断られた。壊れたものでもなんでも引き取りますというあれは嘘か!
こうなると後は真夜中に不法投棄するしかないなと相棒に言うと『アホか!』と言われた。
数日後ダメもとで、また別の流しの業者に同じことを聞いた。すると今度の業者は全部で千円でいいよという。製造型番もなにも見ずに全部持って行ってくれて一件落着した。

ゴミを捨てるにも金が掛かる時代になったのは判るが、どうも釈然としないことが多い。
なぜメーカーは売りっぱなしではなく、乾電池やペットボトルのように最後まで責任を持たないのか。最初から壊れるように設計された製品を買わされて後は消費者だけが貧乏くじを引けばよいのか。これではどの家庭もゴミ屋敷になるか、不法投棄する者が増えるばかりではないか。誰が悪いのか?製造メーカーも小売店もあの手この手と売ることばかりではなく、壊れてゴミになったときのことも考えるのは当然だと思う。とくに高齢化社会になれば尚更である。
話しが飛躍するかもしれないが、原発事故を起こして生み出された廃棄物は電力会社が責任を持って処理すべきで、誤魔化して国民に押し付ける様なことがあっては絶対にあってはならない。
個人が不法投棄すれば捕まる。大企業なら国に守られて罪にはならないのはおかしい。




【2014/04/23 10:16】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
判っていても出来ない


■『またやってしまった!』思わず叫んでしまうことがよくある。
判っていてもつい同じことを繰り返してしまうことは誰にでもよくあることだが、
それは結局判ってなかったことで、頭(理屈)では理解したつもりでも、
実際に実行出来なければ本当に判ったことにはならないような気がする。

囁き

スポーツも芸事も身体で覚えることが大事だとよく言われる。
身体が反射的に動いてはじめて自分のものになったことになる。
忘れたわけでもないのに出来ないのは一体何故なのか?
本気で理解しょうとする気持ちを邪魔する何かがあるのか。
その何かとは人によっても違うだろうが、それがあるうちはまた同じ繰り返を
してしまうのかもしれない。解ったとは電気ショックを受けたような衝撃のようなもので、
理屈ではなく五感で納得(理解)したことはそう簡単には忘れないものだ。




【2014/04/22 10:37】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
可憐

人知れず草むらでひっそりと咲く花

「大丈夫、心配いらないから」と聞こえるようだ

けなげに陽光をあびて精一杯に語り掛ける言葉に

人は感動するのかもしれない

可憐

”ふまれてたんぽぽ開いてたんぽぽ”(山頭火)



【2014/04/18 11:31】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
籠城

最近分ったことだが
教室に借りているひとつの建物が来年建て替えられることになった。
まるで城明け渡しを迫られた城主の心境だ(笑)
家臣たち(生徒)が路頭に迷わぬ様に、次の城を探さねばならない。
それとも筆を弓矢に変えていっそのこと皆で立て籠もるか(爆)
なんだかんだと教室運営も楽ではない。


【2014/04/17 21:21】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
神様はいる


偉い有名先生の作品は芸術の匂いがする。
観ていてもまるで魔法の様に見えたりする。

そうあれは確か二十歳前の頃だった。
初めてフランス料理のフルコースを食べた時
レストランに入って、
『ここ靴を脱ぐのかな?』と思ったり(笑)
出てくる料理にただただ驚きの連続で、
後で何を食べたのかも思い出せなかった(^^;
凄く美味しいのは分るけれども、
また食べに行きたいとは正直思えなかった。
やっぱり普段から慣れ親しんだものが一番美味しい。
本当はどちらも食べれるのがベストなのだろうが、
所詮生まれ育ちや氏素性は隠せない
好みのボロがでてしまうのである。

憧れるけれどもあまりに距離があり過ぎて
親しみが湧かないということがある。
鑑賞する分にはよいが、
実用的ではないということもある。
上に掲げた著名な画家の描いた作品は、
きっとそんなものなのではないだろうか。
それに神様が身近に居てはみんな神様とは言わない。

あんまりこんなことばかり書いていると、
『あいつ僻んでる』と思われそうだが(笑)
結局は観る側の価値観や嗜好の違いで
世の中には絶対に手の届かない並外れた作品もあれば、
親近感の持てるものもあってよいのである。


【2014/04/16 23:22】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
葛藤

 俗化しなければ共感が得られず、

精神が俗化すれば描く気力を失う。

作品を描くとは

進むも退く出来ないそんな葛藤の連続なのだ。




【2014/04/12 12:33】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
小林凛著『ランドセル俳人の五・七・七』
■偶然深夜のラジオから流れてきた話題にハタと耳を傾けた。
いじめで不登校になり、それをきっかけに俳句を書き出した小学性の句集を紹介していた。
実は一年ほど前に何気なく見ていた新聞の出版広告に小さくこの本が載っていたので早速取り寄せた。
五・七・七の短い言葉に込めた少年の叫びと、いじめの教育現場と戦った母子の切実な手記を感動して読んでたことを思い出したのだ。一年前にも別なところにその感想を書いたが、こちらのブログにも改めて紹介する。
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未熟児で産まれ、小さい頃から他の子よりも小さく、その肢体の弱点をとらえていじめが始まった。
だが担任教師も学校側もそれを認めようとしない。仕方なく親は不登校という手段で我が子を守ろうとした。いじめにあっていた凛くんが口頭で読んだ俳句を、傍らで母親が書きとめ、某新聞に投稿したことから注目されるようになった。感性が鋭いのは当然として、とにかく物事を見つめる眼がなんとも優しい。その優しさはけして弱さからではなく、逆に強くて逞しいとさえ感じられる。家族を大切に思い、弱い動物などを慈しむ心に、人の幸、不幸は表面だけでは図れないものだと教えられる。
ある日祖母がいじめを受けている彼に『幸せか?』とたずねると、
彼は『夕べおかあさんも同じことを聞いたよ』と答えて、そして詠んだ。

 ●生まれしを幸かと聞かれ春の宵

大丈夫だよ、僕は充分春のように幸せだよ・・・
誰が悪いとか、責任云々するよりも、誰に対しても恨みごとを言わず、
自分よりも弱者に優しいまなざしを向けて生きることの方が
はるかに大切であることを教えてくれている。
怒りや恨みごとの愚痴を幾ら聞かされても、私たちは感動はしない。
まして多くの人に勇気など与えられるわけがない。
こんな句もある。
 
 ●影長し竹馬のぼくピエロかな

生まれつき体格が小さいが故にそれが原因でいじめられる。
いじめは容赦がなく、無抵抗な自分が情けなく思った。
彼はそれを俳句を詠むことで救われたと語っている。
何度か新聞でも入選するようになると、自信へと発展するようになった。
あるとき学校に彼の作った俳句を見せたところ教師は『俳句で食べていけませんよ』とか、
また別の教師は『おばあちゃんが半分作ったとおもってました』と言う。
母と祖母はこんな学校では何も期待できない。彼を守るのは家族しかないと判断した。
そして彼が8歳の時に詠んだ俳句あとがきに母親は『願わくば、いつか凛が教育現場で尊敬する“師”に出会ってくれる日の来ることを願う」と書いている。なんと素晴らしく賢明な方だろうか。
子供達の心の叫びを聞き取れない教師達にも一度読んでもらいたい。

いじめ、暴力、自殺・・・連鎖的な現象や構造的な問題は今もあとを絶たない。
どこに何が原因なのか私には判らないが、少なくとも子供たちの心の叫びには大人はもっと
率直に耳を傾けるべきで、プロの教師ならなお更である。少年はいじめという負を経験したものの、家族やよき理解者に恵まれて逆境をバネに自力の才能で切り抜けることが出来た。
何かと問題の多い昨今のマスコミではあるが、そのマスコミが少年の短歌を新聞紙面で取り上げ、それが話題となり最後は教師(教育現場)にいじめの事実を認めさせ、少年の前で詫びたのである。

ブームや時の天才はつくられるものだと言う人もいるかもしれない。
話題に便乗しょうとする者も居るだろう。しかしそんなことはどうでもよいことで、感動や共感という事実が受けての側に伝われり、それが何等かの力になればそれで充分だと私は思う。




【2014/04/11 22:09】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
船場三越店
■今は取り壊されてその姿は無いが、30数年前に描いたスケツチ。
古い建物で正面玄関には店シンボルのライオンが座っていたのも面白くて描いてみた。
何気なく足が止まって描いただけの一枚の絵、出来はともかくとして、後になってから
尾ひれが付く様に、絵とは全く違うドラマが生まれることがたまにある。

同じ北浜の難波橋の横にも相当古いビルが建っていた。私はそれも描いているが、
個展の折りにその作品を観た人が気に入ってくれて購入してくれた。
ある時、その顧客の知人が偶然にその作品を見て『このビルの中に自分の事務所があったので、
よければ譲ってくれないか』と頼まれたという。このビルも既に老朽化の為に今はないので、
記念になるのならとしぶしぶ譲ったとうかがった。
私が描いた古い建物の絵には、何故か後日談があるのも不思議な気がするが、実はこの三越も
我が相棒(妻)がまだ若かりし日に勤めていたことを結婚後に知ることになる。
しかし当時の私はそんなことを知るよしもなかった。

船場三越店

考えてみれば、絵描きが描いた絵とは全体のごく一部分で、何かの形で誰かの目に留まり、
そこからまた新たな意味が加えられて厚みを増すのかもしれない。それは作者の意識とは別次元で起こった出来事でも、歴史はやがては描き手の元に帰って来て新たな想いを抱かせる。
そんなことを思うと、その都度描く作品にも未知への楽しみが湧いてくるのである。




【2014/04/04 11:12】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
基本を押さえる

■これはどんな世界にも通じることだ。

基本というものは地味で面白くないのでつい無視したくなるものだが、

基本が整わないようでは先へは進めず発展もない。

急がば舞われという言葉もあるように、

生まれつきの天才ならともかく、

そうでない限りは地道に積み上げる以外に近道は無い。


【2014/04/04 00:30】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
日本語の美しさ
■絵描きの私が日本語云々するのも変な話だが、自分の思いを伝えるということからすれば、
絵もひとつのメッセージである。言葉はその国の自然風土や文化と密接に関係している。
四季の移ろいの様に美しく奥深い響きを持つ日本語は素晴らしい。だから絵も日本語で伝えたいと私は思っている。
ところが最近はその日本語が乱れて、なにもかもがカタカナで何語なのかよくわからない。
或は若者が感覚的に発する擬音、擬態語がやたら氾濫して耳に付く。時代の流れで仕方がないのかもしれないが、もっと自国語を大切に使えないものかとつい思ってしまう。
偉そうに言うほどの国語力があるわけではないが、せめて自分では日本語の持つ情感を少しでも作品に込めたいと心掛けている。

轍(余呉)

語らぬが察して知るべし冬の華/なぜここに誰が決めしか一筋の道・・・
少ない言葉でも情景がおぼろげに浮かんでくるような,そんな日本人の描く絵は所詮日本画で洋画にはなることはない。
歌い手は声をマイクに、小説家はペンで原稿用紙に、絵描きは筆で画面にそれぞれの思いを込めて伝えようとする。それを疎かにしては、本来の仕事は果たせないのではないだろうか。




【2014/04/01 11:17】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(2) |
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透明水彩画のブログです。
絵を描くことは感動を見つけ出すこと。その時々に出会った想いを備志録的に綴ります。




■変なHNですがネットを飛び回るには便利な南米の鳥です(笑) 観掛けはこんな姿でも、いたって小心者です。 気まぐれな更新になりますが、どうぞよろしくお願いします。

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