高倉健という俳優
 
■亡くなった映画俳優の高倉健さんのエッセイ本『旅の途中で』(新潮文庫)の中に、作家の丸山健二氏が寄せた「それが高倉健という男ではないのか」という一文が載せられている。(元々は高倉健の写真集の為に書かれたれたものを転載)自身も孤高の作家と言われる丸山氏の目に映った一人の役者の姿は、そのまま私も共感する部分が多いのでここに全文を紹介する。
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何もかもきちんとやってのけたいと思い、これまで常にそうしてきたのは映画を愛したきたからではなく、或いは役者家業にほれ込んでいたせいでもなくただそれが仕事であり、それで飯を食ってきたというだけの理由に過ぎない。だから出来る事ならファンと称する大勢の他人に囲まれたり、カメラの前で心にもない表情を作ったりし、ややこしい人間関係の真っただ中に身を置いてしたくはないのだ。それが高倉健という男ではないのか。

とは言え、嫌々ながら仕事をしているのではない。好きとか嫌いとかを尺度で仕事をするのではなく、やるかやらないかを問題にするのであってやめと決め、引き受けたからには持てる力を惜しげもなくつぎ込み奮闘する。仕事だから仕事らしい仕事をやってのけようとする。それは観客の為ではなく自分自身の為にすることなのだ。受けるとか受けないのかは勿論気になるが、最終的には知ったことではないの一言でけとばしてしまう、それが高倉健ではないのか。

必要以上のサービスはまっぴらだ。俺を見たければ映画館へ行くがいいし、こうした本でも買うがい。だが本物の俺と俺の私生活にはけっして近づくな誰であってもだ。よしんば仕事の関係者であってもだ。ましてや男と男の友情などと口走って迫って来る薄気の味悪い男はなおさらだ。俺はスターの立場にたまたま居るのであって、所謂スターさんに強く拘ったわけではない。それが高倉健ではないのか。

腰ぎんちゃくやらお伴を引き連れて、毎夜銀座をうろつかなければ、あっちからもこっちからも声が掛からなければ、いつでもちやほらされなければ、寂しくてたまらないし、取り巻き相手にわめき散らしていなければ、安心出来ないというのがスターさ。仕事が終った途端に素早く自分に戻れるのがスター。スターは己を見失うことなく、時々胸の内で冷ややかな笑みを浮かべている。
それが高倉健ではないのか。

役者は特別な存在でなければならない。たとえ普通の人間を演じる場合であっても、普通の男であってはいけない。とりあえず外見が問題だ。顔だけ特別に立派でも、首から下が世間の連中とまったく同じではまづい。つまり頭のてっぺんからつま先までが売り物としてふさわしくなければならない。大酒を飲み、多飯を食らい、どこにでもいるようなデブとなって、ほんのちよっと動いただけで息切れするする様な男が主役を平然とやってのけている。しかし彼はちがう。彼は何時も特別だった。それが高倉健ではないのか。

必要に応じて、必要な動きの出来る男が減っている。どうということもないのに、大袈裟に騒ぎ立てる男はうじゃうじゃいる。そんなに動かなくてもいいのに派手に動き回る男は増えている。そんな男に限って、本当に動かなければならない時にこそこそと逃げてしまう。格好だけでいいのだ。中身なんてどうでもいいのだ。外側だけしか見えないのさと彼らは居直る。だがそうではない。人間の中身はハッキリとスクリーンに映し出されるものだ。例えば分厚い皮下脂肪のような形で。彼は必要に応じて必要な動きが出来る。スクリーンの上だけではなく、私生活の上でも。それが高倉健ではないのか。

三年前にやれなかったことが、今は簡単にやってのけられる。そんな男は少ない。流れに身を任せることを知っていて、時には流されもするが、しかしそれでも頭は常に上流に向けられ、両手は常に水をかき、両足はしょっちゅう水を蹴っている。つまりエネルギーの配分を冷静に計算しながら、少しでも前進しようと狙っている。彼は決して溺れない。それが高倉健ではないのか。

暗くて重くて正しくて、一匹狼のイメージはいつしか敬遠されるようになった。そうした主人公に憧れ血の騒ぐのを覚える男は減るばかりだ。時代は益々薄くて軽い方向へ傾いて行く。その日その日をちまちまと、こすっからく目先の欲に振り回されて、弱々しくてだらしない男たちが、普通でいいんだよ、自然に生きたいのさ。等身大の生き方がしたいんだなどというこざかしい言葉の上で胡坐をかいている。その中にあって彼は、男であり続けたいと願い、役者をしながらもその姿勢を崩そうとはしない。それが高倉健ではないのか。




生前高倉健はこの一文を、自分への激励として、気持ちが落ち込んだ時には何度も読み返して勇気付けられたという。その思いの中には彼自身の描く男の願望のようなものが投影させていたのかもしれない。また丸山氏が寄せたこの一文が、追悼の文のようにも聞こえてくる。

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どんな世界であっもプロとは皆同じだと思う。勿論伝説や作られたイメージもあるだろうが、それをも含めて彼は稀有の役者の一人である。彼の作品や人生観には私も共感する点が多く、また彼の映画の舞台にはよく雪景が使われているが、彼ほど雪の似合う役者はいないことにも惹かれていた。憧れはしても真似は到底出来ないが、別にそれでも構わない。丸山氏のこの一文は絵描きである私にとってもひとつの羅針盤の様な気がするのである。



【2016/01/23 21:45】 未分類 | トラックバック(-) | コメント(0) |
魂の絵
 

■以前金沢に住む水彩画家の個展を観賞したことがあった。

梅雨の時季は田んぼに水が張られた田植えの絵をよく見掛けるが、

その作家の作品も田んぼの絵が多かった。

今にも降り出しそうな空模様の下で働く農民の姿を通して、

ドロンコの土の匂いやそこに生きる人達の逞しい日常の様子が、

とてつもなく美しく伝わってきた。

後で色々と話を伺うと、普段農業に従事してその合間に

一貫して『野良仕事』をテーマに描かれているとのこと。

そして作品が溜まれば、ひょっこりと大阪に来ては個展を開くらしい。

日展にも名を連ねていたが、そんなことには無頓着な骨太の作家だった。

頭ではなく体感で知っている人の『説得力』には適わない。


また別の関西水彩画界の重鎮は、雨降りの中で自身も雨に濡れながらも、

通天閣の下にあるフグ提灯の灯りを夢中で描いていた姿を見たと、

その人の知人から聞いたことがある。

安易な妥協は許せないという品作りの気迫はやっばり凄いと思った。

我々は梅雨の時期で外へも描きに出掛けられないと嘆く事はあっても、

これ幸いと勇んで出掛けることはない。

しかし、人によってはこの瞬間から既に違いがあって、たからこそ観賞者にも

現実を越えるほどのメッセージとなって迫ってくるのかもしれない。

お二人とも既に故人となられたが、今も鮮明にその作品と生き方が蘇る。


作家が個々に発する作品のパワーは、それぞれに違って当然である。

経歴や環境を含めて真似する事は出来ない。

だが本質的な部分を学ぶことは充分可能である。

寒い時季に『お前もしっかりしろよ』と改めて自分に言い聞かせながら

もうすぐまた北の大地へと旅立つ。



【2016/01/07 18:40】 日々の呟き(日記) | トラックバック(-) | コメント(0) |
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