素描と本画

料理家の『まかない』

店のメニューには出してはないが、食事時に内輪が食べる料理のことをまかないという。
余り物の食材料で作ったとはいえこれが結構美味しいらしい。
ならば何故メニューに加えないのか?それはやっぱりまかない料理だからで、
お金を取って出す料理ではないというのが作った板前の言い分かもしれない。
何が違うのか。基本的には同じ料理で美味しければよいと言っても、
器も有り合わせで、何の飾り付けもなしでは完成度の点からみてもまかないは、まかないで
口の肥えた常連客が幾ら絶賛をしたところで、プロとしての仕事として、
店の正式なメニューで出せないのも頷けるのである。
またプロとしてのそんなプライドのようなものを認めることが出来てこそ、
口の肥えた常連客といえるのではないだろうか。

ラフ画

話を転じれば、絵画にも『素描とスケッチ』というものがある。
本画作品を描く為の下準備に描く為のエスキースという場合もあるが、
同じ画家の手によるものなら、全てが作品と呼べるのかと言えば、やはり目的の違いからも
同じではないというのが一般的である。
本来は公開すべきではないもの…すなわちメニューには載せないまかない料理と同じものを、
美術愛好家や批評家が絶賛するのは自由である。
しかしその先に本画の作品が存在することを理解できなければ、
単なる無責任な評と言われても仕方がないのではないか。
プロにはプロとしての秘しておきたい制作のプロセスがり、それは一部の人を対象とせず、
広くその他大勢の人達に果たすべき仁義のようなものである。
自ら描いたものに作家自身の責任が持てなくなって、他の誰が責任を持ってくれるだろうか。

確かに気負い無く描かれたスケッチにはそれなりの素晴らしさがあることも認めなければならない。
過去の大家が、下絵に描いたラフなスケッチはそれ自体が既に作品の領域に達している。
実はそのことが重要なのだ。画家はけしてそれを作品として公表するつもりはなく、
ゴールに至るまでの過程の作業で描いたに過ぎない。いわば楽屋裏のようなものだ。
その隠れた部分の真剣な足跡が積み上げられ、昇華されたものが本画作品だと思うと、
その気迫の凄さに接した我々が感動するのも当然と言えば当然なのかもしれない。
更に言えば、一人の作家が何時どんな処で何をどの様に描いたとしても、
全てが作品に通じる軌跡で、それを読み切ることが観賞する側に出来ているのか
或いは描く立場になれば、その自覚が出来ているか否かだと私は思う。


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【2010/08/11 11:23】 コンドル流水彩画考 | トラックバック(-) | コメント(0) |
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