■一口に麺類といっても
蕎麦、うどんから始まりラーメン、素麺、スパゲッティーetcと色々ある。
そして食する側がそれぞれに拘りだすと好みが別れる。
当然ながら作るその道の匠となれば
万事に半端なく負けじと研究するだろう。
そこには伝統も有れば、斬新な発想で新たなものが生まれたりする。
絵画(芸術)の表現も結局は同じで
理屈を幾ら並べても平たく云えば
送り手も受け手も好みと時代が違うだけで
上位や序列などあまり意味がない。
カップラーメンが一番好きだという人が居ても良い。
奥深いその道の味を極めようするのも自由なら
何を食べたいかを決めるのも客の自由である。
時代をさかのぼれば『そんな表現は邪道だ!』と批判されたことが
後の世では主流となることも珍しくない。

おかしな譬えになってしまったが
私もかれこれ40年前(たまたま)透明水彩画を我流で描き始めたが
いまだに難しくて苦労の連続。
もし違う仕事に手を付けていたとしたら
やっぱり同じことを言っているだろうと思う。
何を食べようかと迷っている人に
自分の造るうどんは世界一だと自負するのは自由である。
しかし既に他店のうどんを食べている人に向かって
本物のうどんはそんなものではないと言うのはいささか僭越。
目から鱗で『そうなんだ!』ともし何かひとつでも納得が得られて
別の麺類を食してみるのもそれはそれで客の判断。
我々描き手(作家)は己が持ち前の作品を
精一杯に描き提供するのが本分であり、それ以上でも以下でもない。
天性我流とはそういうものではないだろうか。
強調文